不謹慎


人生で時々起こる不思議なコト。
先の記事をUPした矢先に観た映画が、その記事で僕が言いたかったコトに酷似していた。
洋題はLevityだが、なぜか邦題は『最高の人生』。


先記事では僕が珍しく宗教に例えて僅かながらに触れている。
僕は無神論者ではないが無宗教とゆう立場で理神論に近い哲学信仰者なので宗教を語る資格が無い。
そんな僕が、片田舎で出会った連中の信仰心に眉ツバを感じざるを得ない理由は結果主義者だからだ。
結果的にソレ(片田舎半端者)ならば神(愛)の力を借りるまでも無い。銭でコト足りる。





東大君をはじめ科学信仰者らとは、もっと原始的な次元で共有しているのだが・・・
この地(片田舎)で出会ったとゆう事実の受け止め方は、過去の恋人らと同様に分かり合うコトはデキなかった。
その『罪の(認識の)差』を説明しているかのような映画でした。
僕自身はその認識と償いこそが幸福感の差だと感じていますが・・・
それを測る尺度が無いため、個人差を正しく比較するコトは不可能だと感じております。
片田舎女を愛するなど、犬を飼うほどの一人ヨガリな『気休め』だと理解している。
ルール通りにノミ一匹を庇護したところで過去の罪は消える気がしない。
それでは規格外の連中が報われない。


今月の片田舎Timeで改めて感じるコトは、片親で育った連中だけは見捨てられないってコトでした。
片田舎者とは言え、さらにハンデを背負っている連中は何の罪だろう?ってね。
片田舎者であるコトは、そこで安直に育てたテメェらの親を恨めば済むことだが・・・
彼らには恨んでも取り戻せないコトがある。
愚かしいクソ女に育てられた連中に示してやれるコト・・・それが映画で言うところの僕の償いでしょう。
金や論理で片付くものなら一気に犬儒学(呪縛)を叩き切ってやりたいところだが・・・
イヌを扱うように簡単にはいきません。


クソ女でも生きる権利がある。
敵は本能にあり。