愛とは

昨夜は久しぶりに観応えのある映画を見たので覚え書きしておく。
思うに、良し悪しとか好き嫌いは経験と知識、そして感性の差なので解らない人がダメでは無くて『仕方ない』。
コレなんて解り難いだろうと思うのね。けれども近頃は、解らないほうが良いコトもあると思うようになりました。
『知っている』とゆう状態には勘違いも含めて個人差があるので他者と自分の認識はなかなか一致しない。
また情報など経験の伴わない言葉での認識は、逆にその対象へ深入りする妨げとなり片田舎者のように浅はかな理解力しか育めなくなるものなのよね。なので言葉さえも不一致なんだ。


考えるな、感じるのだ・・・素晴らしい言葉だけれども・・・
片田舎者女の貧困な感性では、せいぜいお股が湿る程度のコトで・・・本来の意味とはほど遠い効果でしかない。
あぁ、残念だなぁ・・・解って欲しかったなぁ・・・ 向上心がある限り、いつかは知らなければならない避けては通れない道なのに・・・その場面に直面すると片田舎者はたいていその場凌ぎでその場を濁す。
悪と断言デキるほどの知識も経験も無いくせに、多数派の顔色を伺いながら『変』とゆう言葉に置き換えて己を善とする。思考が停止していることに気づけない片田舎者が感性を掲げて好き嫌いをホザきだし悪人呼ばわり。
知らない権利を行使しているツモリなのか・・・コチラにしてみれば自由を悪用しているとしか思えない。
でも実は、ハナから片田舎者には知る権利が与えられていなかったとも育ちから窺えるのでついつい同情してしまう。
その情からから始まる交わりもcauseとreasonの差で効果と結論が一致しない。


と、ゆう訳で・・・
僕はこの映画にあるような状況を何度も経験しているので、この物語の描き難さもよく解る。
僕も体験を何度か言葉にしてみようと努力したコトがあったが・・・言葉ですら難しい。
今後も課題です。