ブ男の哲学


片田舎者は自動車、子供、旅行。 他に知らんのか?


ここ数年、ブサイクや無知、無能、片田舎育ちの立場や気持ちを考え続けてきた。
デブ、小太り、チビ、ダサ、カッペ、寄生虫根性・・・
なるほど・・・これほどまでに因も過程も異なると果の共有など無理なんだな、と連中の諦め癖に巻き込まれそうになっていた。
良かれと思って皆へ伝える僕の手の内も、連中の射幸心を煽るばかりで成果に至らず。
よくよく考えてみれば、そもそも前提が異なる上での手段の差は当然のコト。
金が欲しいヤツには儲け方を、モテたいヤツにはモテ方を、大サービスのツモリで教えてあげたのに・・・なぜデキないのか訳が分からなかった。怠け者だと思っていた。


例えば、モテないヤツに恋愛映画の名作を観せても感動しない。
鈍感なのかと思っていたら、未経験なので認識デキないだけだったのだ。
それに気がついてから全てのツジツマが合った。ガッカリするほどね。
あぁ、そっか、、、だから片田舎者とは何一つ咬み合わないのか、、、と。


ずっと不思議だった。
ド田舎者のほうがマシだと感じたコトが何度もあった。
貧乏出で中卒の僕とは違って、片田舎者にはそれなりの経済力がありそれなりの学力があるのに・・・なぜ、これほどまで愚劣に感じてしまうんだろう・・・って。


貧乏だった僕は、お金を得れば済むのよね。
お金の使い方を知らなかったわけじゃなく、お金が無かっただけだから。
でも片田舎者の精神貧乏は経済力じゃ直らないんだ。自覚さえ無いのだから直るハズも無い。
悲しい育ちだな・・・と、一肌脱いで教えてあげると、現実から目を叛けて理想へと逃げてゆく。
それは僕らが使っている夢や希望とは違う言葉なんだけどな。
次はソレを説明すると、僕が異常で皆が普通だと言い出す
工夫や努力が尋常じゃないとか。我慢しているだけの怠け者らに後ろ指を差されてしまう。
稼いでみせた上で金じゃ無いと言う(庇う)と、なんと運が良かっただけだと貶められる。
金での魅力は限界があるよと伝えると、ウチの家族だけは幸せだと取り繕いだす。
ならばと、その皆が作っているこの地域性(色)に魅力があるのか?と問い正す。
すると、ここは田舎だから仕方ないとホザきだす。


そうゆう意味では『まさか』だったよ。
まさか、向上心の共有が拒絶に繋がるなんて、片田舎者の育ち(性根)を知るまでは理解不能だった。



ブサイクなのにダサい。 踏んだり蹴ったり。
お金があるのにダサい。 もはや処置なし。


それでも、お金があるから学歴があるから。高収入だの高級車だの。
いったい・・・どーなりたいの? 
ブスと高級車。片田舎でよく見るセット。片田舎者は費用対効果無視。
その無駄使いが贅沢で豊かとは、とてもじゃないが感じられない。
もぅ、君らの理想は叶っているよ。心身ともにダサい。生き方までダサい。
そんな無粋な片田舎男の銭で釣られてくるのはクソ女ばかり。
そりゃ、心身ともにブスしか集められないワケだ。


負け慣れてる。踏みつけられ慣れてる。 それは強さではない。


片田舎者ごときに寄生して生きる銭ゲバ女のキモチ。その子供たちのキモチ。
解かるわけねーだろ。
想像さえも簡単じゃ無かったゾ。


理解デキるようになるまで、どれほどまで親身に接してきたことか。


でも、寄せ集められちゃった無自覚なクソ女に罪はあるのか?って話でね。
環境の変化で増えちゃったクラゲみたいなものでさ。
クラゲはクラゲの立場でクラゲなりに生きてるだけなのに、気の毒だけどやっぱ有害なのよねぇ。