片道通行

机に向かっていると必ずミーコが割り込んでくる。
可愛げがあり悪い気はしないが重いし暑いし邪魔である。
かと思えば振り返るとビリヤード台の上で寝ている。背中を向けているあたりが嫌味だ。
ふと気がつくと、もぅドコにも居ない。
探してみると勝手口にある雑巾置き場の隙間で寝ている。
しかも、どした?顔でコッチを見ている。コッチが聞きたい。


勉強すればするほど自分のアホさ加減がよくわかる。
けれども、今ってホント便利でさ。iPad に話しかければ何でも答えてくれる。
文明がアホや下層に与えてくれるチャンスかもね。
そこで先ほど、「上辺、対義語」と音声検索してみると・・・「中身」と表示された。
あれ!? 僕の予想がハズレてしまった。


実は、昔の僕は中身や内実だと思っていたのだが・・・
片田舎者らと接しているうちに、上辺の対義語は「下辺」だとばかり思い込んでしまっていたのだ。
片田舎における恐ろしい錯覚だが、これを実存主義的に唯物論で考えると錯覚では無く事実なので厄介なのだ。
片田舎者に中身なんて存在しない。虫の骸かと思うほど身も心も軽い。


形而下的には醜いし形而上的には賤しいだけ。
それで経済力や学位を誇られても困る。村社会で利己主義を主張されても中卒の僕は困惑するだけよ。


情情報も経済力もサーバーばかりが発達してゆくけどさ。
それを使いこなせないイヌでは、観念論的に無に等しいと僕は言っているだけ。
片田舎者はあまりにも歪んだ唯物論で責めてくるので経済力を見せつけると、運が良かっただけだと観念論を持ち出してくる。ほな観念論をと理想を語ると、家族があるからと唯物論で逃げてゆく。
とりあえず子供を作り自動車に乗せ走り回って喜んでいるんだとさ。訳わからん。
愛犬は発想が貧困な田舎女を喜ばせて喜んどけって。
片田舎のように半端者が集まる地域や次元を往生際と呼ぶのだろうね。
はぃはぃ、僕が悪ね。その通り。